バイオと製薬2|エッセイ

近年、生物学が深くミクロなレベルまで研究されて、生命現象を高度な化学反応の集合体として捕らえられるようになった。これらのことより、薬剤の開発も、これらの知識を用いた新しいデザイン方法に徐々にシフトしてきている。ケミカルバイオロジーという新しい学問分野が、この手法で薬を開発する上で必要であるのだが、今回は、ケミカルバイオロジーという分野についての説明を簡単にする。さらにこの分野に片足くらいは(いや小指くらいは?)つっこんで研究をしているものとして、これらの研究の難しさについても簡単に述べる。最初は、基本的なキーワードから説明していこうと思う。

遺伝子とは

DNA上の「一つのタンパク質の設計図」に相当する部分を「遺伝子」とよんでいる。「遺伝子」の情報を元にmRNA(messenger RNA)が作られ、mRNAの情報を基に様々な機能を持つタンパク質が作られる。

人間の遺伝子数は10万個を超えると考えてられていたが、「ヒトゲノム計画」により解析が進むにつれ、遺伝子数は2万5000個以下であることが明らかになった。ヒトのDNAには、2~3万個位の遺伝子が並んでいることになる。

現在、「ヒトゲノム計画」により、その遺伝子情報を含むヒトゲノムの塩基配列が解読された。さらに、そのゲノムのもつ機能や、「遺伝子」から生み出されるRNAやタンパク質の構造や機能も解明されつつある。

ゲノムDNAと遺伝子

ゲノムはDNAであり、遺伝子もDNAである。ゲノムDNAとは、核の中にあるDNAのすべてであり、「遺伝子」とはその中のほんの一部を指す。では残りは何なのであろうか?

遺伝子DNAは、DNAの中でタンパク質のアミノ酸配列を指令する情報が書き込まれている部分(この部分をエキソンと言う)であるが、その途中にはイントロンとよばれる余分なDNAがはさまっている(働きはあまりわかっていない)。さらに、遺伝子の働きを増やしたり減らしたりして調節するスイッチの役割を果たすところがある。例えば、タンパク質には体内に多く作られるタンパク質があれば、ごく少量しか作られないタンパク質もある。周りの様々な環境やホルモン、サイトカイン等の信号によって作られる量が調節されるもタンパク質もある。(例えば、ヒートショックタンパク質というものがある。体温より高い温度にさらされると大量に合成されるタンパク質であり、熱のせいで立体構造が崩れ始めたタンパク質や産生過程でうまく立体構造をつくれないタンパク質を助けて、その構造を保持し機能を回復させる働きをしている。)そういった合成量を調節するスイッチは多くの場合、設計図である「遺伝子」の周辺のDNAに存在する。

他には、DNAの複製に関わっていたり、細胞分裂の時に染色体をうまく分離させる仕組みとして働いているものもある。染色体という構造の中で、DNAの長い紐が絡んだり、壊れたりしないように保つ働きをするところもある。塩基配列が変化したために働けなくなってしまった偽遺伝子や、ゲノムの中をあちこち動き回る小さなDNA断片、過去に感染したウイルスの残骸、同じ配列が何回も繰り返し存在するものなどもある。

ケミカルバイオロジー

生体はDNA、RNA,、タンパク質を含む様々な生体物質や、小分子化合物などが複雑に相互に作用しあいながら、恒常性(ホメオタシス)を保っている。ケミカルバイオロジー (chemical biology) では、これらの物質を化学物質として捉え、これらの生体内の分子間相互作用を研究することから、生命現象を解明していく新しい学問分野である。つまり、"化学的観点から生命現象を解明する学問分野"と定義される。この分野では、分子生物学的な手法に加えて有機化学的な手法も駆使し、DNA, RNA, タンパク質などの生体内分子の機能や反応を分子レベルから扱おうとする。その中で DNA や RNA などを対象とする分野は、化学遺伝学(chemical genetics)とも呼ばれる。

近年、ゲノム科学、構造生物学の研究の進展に伴い,遺伝子およびタンパク質の機能と構造に関する莫大な情報が蓄積されつつある。また、これに加えて、ある生体内の現象を引き起こす原因となる生体物質間相互作用についても、情報が徐々に蓄積されつつある。これらの情報を元に、生体内物質間の相互作用をコントロールできる小分子化合物をデザインすることが出来れば、その相互作用によって引き起こされる生命現象を人工的にコントロールすることができるかもしれない。

生命の設計図をコントロールする。こんな夢の人工分子が、化学と生物の融合領域であるケミカルバイオロジーを武器に、分子レベルでデザイン、合成されて、難病の治療などに貢献することが期待されている。

ケミカルバイオロジーを用いたゲノム創薬の難しさ

生体間物質間相互作用をコントロールすることにより、生命の設計図をコントロールでき、これが未来のゲノム創薬に繋がることは間違いないのであるが、この手法を元に薬を計画的に開発するためには、現在のところ、まだリスクと困難がつきまとっている。生体を化学的にとらえると、生命現象はあまりにも複雑で、分かっていないこともたくさんある。機能未知のタンパク質もまだたくさんある。タンパク質に翻訳されずにRNAのままで存在し(non-coding RNAという)、機能が分からないものもある。一つのたんぱく質が、複数の機能を持つ場合もあり、一つの側面しか詳しく知られていない場合もある。ある生体分子をコントロールする小分子化合物がデザインできたとしても、その化合物が、全く別の生体分子に影響を及ぼし、副作用を及ぼすことももちろんありうる。ある生体分子Aをコントロールすることが出来る薬剤が、ある病気に効いたとする。その病気の原因が生体分子Aなのか、その薬が効く原因が生体分子Aに効くことによるものなのか、解釈が難しいことも多々ある。

ここで、私か研究でやっていることを簡略化して説明する。具体的な名前は出せないが、分かりやすいよう記号であらわすことにする。

私は、ある小分子化合物Xがあるタンパク質Aと特異的に結合することを見出した(X-A複合体を形成)。そのタンパク質Aは他のタンパク質BやCと結合してABC複合体として一つの働きすることが知られているのだが、この小分子化合物Xは細胞内でそれらの複合体形成を阻害するばかりか、タンパク質Bの安定性を損なわせ、細胞内蓄積量を減少させていることを見出した。(生体は生体内で不要になったタンパク質を積極的に壊す仕組みを持っている。)この小分子Xがタンパク質Aと結びつくことにより、タンパク質ABC 複合体の働きをコントロールし得る物質であることを化学的側面から見出した。XはABC複合体に対する分子標的薬になりうることを発見した。

しかし、「小分子Xの細胞や生物全体に対して引き起こす現象、薬効」(医学、薬学、生物学)と「Xが細胞内でABC複合体を分子標的にしているという私の結果」(化学、生化学)が本当に結び付けられる事なのか、それを検証することが、実は結構難しいのである。

現時点では、様々な困難であるものの、様々な生体分子の機能が明らかになるにつれ、将来には、薬を開発する上で、分子標的薬の開発が増えてくるのだと思う。